2009年6月21日日曜日

桜池の河童(7)



 暗い畦を歩き、自転車をほってあるみかん畑までたどり着くと、としゆきは片手で横倒しにしている自転車を起こして跨りました。相変わらず空には稲妻の光と音が轟いており、大粒の雨の勢いは弱まりませんでした。
 としゆきはフラフラと自転車をこぎだしたのですが、長い間片手で鯉の入った肥料袋を持っていることが出来ませんでした。何度も自転車を止めては、握りなおすのですが、雨で濡れた手がだんだん痺れてきて、いつ袋を落としてもおかしくありませんでした。
 雨に煙る"もりさん”を越えて、誰もいない畑の中を走り、家にたどり着いたのは、もう夕方の6時を廻った頃でした。釜屋(台所)のトタン屋根の下にたどり着いたときは、本当に疲れて倒れてしまいそうでしたが、肥料袋を持って、釜屋の前にあるツツジの木に囲まれたブロック製の池に錦鯉を放しました。
 夕立でいっぱいになった水面に錦鯉は、ぎこちない様子で浮いていましたが、しばらくするとすばやく身を捻って底のほうに潜っていきました。としゆきはうれしいというより、これで休めると思ってホッとしました。寒さと疲れが体の芯に染込んでくるようでした。
 体にひっつく濡れた服を脱いで、洗濯機へ放り込みました。母親が釜屋の中から姿も見せずに、風邪を引くから早く服を着るようにと言いました。生返事をして、離れた母屋に走りこみ、頭をタオルで拭いて、新しい服に着替えるとやっと暖かさが戻ってきて、そのままとしゆきは、食事もとらずに寝てしまいました。
 雨は小降りになり、雷も東に離れていました。窓の外ではこおろぎが一匹鳴いていました。

 翌日、ブロック池に放した錦鯉の姿は有りませんでした。としゆきは底に潜っているのだと思っていましたが、兄や両親は猫に食べられたのだろうといいました。

 その後、としゆきは桜池で会ったケンゴを見ることはありませんでした。隣の小学校に通う従姉妹に聞いても、そんな男の子はいないとのことでした。

おわり

2009年2月24日火曜日

桜池の河童(6)

 風がゴウゴウと桜池の周りの大木を揺らせます。西の山の向こうでは稲光がゆっくり明滅しています。雨はやや強くなりながら、頭や肩を叩きだしました。としゆきは胸の下の方落ち着かなくなる感じがしました。
「もう帰えらへんの」
 チラリと振り返ったケンゴは唇を歪めて「怖いんか」と囁いた。その声は強い風にもかかわらず、としゆきにはっきりと聞こえました。
 としゆきは言葉を詰まらせていましたが、「おまはんこそ、怖わないんか」と大声で言いました。
「…」
 ケンゴが何かを言おうとした瞬間、南の山の向こう側に光りと轟音が同時に爆発しました。その光りと音にケンゴも小さく悲鳴を上げました。
「これはあかんは…もう帰らな」
 としゆきは心の中でケンゴの様子を愉快に思っていましたが、すぐに二回目の落雷があると全部忘れて逃げ出したい気持ちだけになりました。
 ケンゴは竿から糸を外すと、竿を堤の草の中に隠して糸はおかしの箱に巻き取ってズボンのポケットに入れました。そして素早く重そうなタマネギ袋を引き上げると、「入れるもんあるんか?」と尋ねました。
 虫網以外に何も持っていないとしゆきは、とっさにみかん畑の横に放置されている肥料袋を思い出して、駆け戻って大きな濡れたビニール袋を持ってきました。
袋をあけるとまだ強く化学肥料の匂いが残っており、ケンゴは嫌な表情でとしゆきを見つめました。
「よく洗うから」としゆきは言い訳をするように、濡れた堤に伏せて腕を伸ばし、肥料袋に池の水をくんで何回もゆすぎました。
 それでもまだ匂いは完全に取れていませんでしたが、ケンゴは大きな錦鯉をその中に入れました。水の重さと鯉の重さでとしゆきの手はちぎれそうでしたが、もっと重いたまねぎ袋を持ったケンゴの手前、一生懸命我慢しました。
「いけるんか?」
「いけるよぉ」
 雨は益々強まり、首筋から背中へどんどん流れ落ちるほどでした。
「お前んち遠いやろ。うちへ来いよ。おとうちゃんに送ってもらうようにゆうたるからっ」
「ええよ、帰れるから」
 暗くなりだした池の堤でケンゴの表情は帽子のつばで見えませんでしたが、懸命に家に来るように誘うケンゴのことがだんだん恐ろしく思えてくるのでした。
「うちはあの竹薮を抜けたらすぐやから」
 ケンゴの指さす暗い竹薮の影を見たとき、としゆきの心に兄が言った尻子玉を抜く河童の話が甦ってきて、もう我慢できない気持ちになりました。
「ほな、帰るからっ」
 としゆきはケンゴを振り切ると肥料袋とアミを抱えて堤を駆け降りました。
後方でケンゴがなにやら叫んでいましたが、振り返りもせずに雨に目を細めながら、自転車を置いてあるほうへ懸命に歩きました。
 途中腕が痺れて何度もビニール袋を落としそうになりながら、その度雨音と雷鳴に驚いた鯉の水を蹴る音がして改めて袋の口を両手で握り直すのでした。

2009年1月7日水曜日

桜池の河童(5)

 今にも降り出しそうな重い雲が桜池の谷に広がっていました。もうすぐにも雨の水滴の作る波紋が水面を多い尽くすような気がします。としゆきは水の波紋を待っていました。そして、波打つ水面にはっきりと分かる波紋が広がりました。
「きたっ」
 ケンゴの鋭く小さな叫びとともに浮きが跳ね上がり、竹の竿は”つ”の字に曲がりました。波紋は雨ではなく浮きが沈んだ際にできた物でした。
 としゆきは目を丸くして明らかに大物によって、捻じ曲げられているケンゴの竿を見上げました。ケンゴは今までに無い真剣な表情で竿を右に左に操り、魚をいなそうとしています。魚が一瞬水面に近づいたとき、大きな金色の腹が見えました。
「金鯉やっ」
 ケンゴは益々目を輝かせながら、歯を食いしばって竿を握り締めています。
「もうちょっとで上がってくるから、網で掬ってくれっ」
「網って・・・」としゆきは自分が持ってきていた網のことをすっかり忘れていましたが、自分の後ろにほおり出していた虫取りの網を掴みました。しかし、いよいよその全身を水面に現した金色の大鯉を見ると、自分の持ってきた網はとっても頼りなく、とてもこの池の主のような魚が入るように思えませんでした。
「上げるど、掬ってくれ!」
「え、ああっ」としゆきは意を決して、網を魚の方に近づけました。
「そっちからやない!魚は頭から掬うんやっ」ケンゴは怒鳴るように言いました。
「ああ、うん・・・」としゆきは必死に頭から魚を掬おうとしました。しかし、堤のすぐ下は葦が生えており、網は葦の茎に遮られてうまく魚に近づきません。
「もっと寄せてっ」
「寄せとるわっ」ケンゴは唸るようにいって竿を立てていきます。「今やっ」
「うわっ」変な掛け声とともに、としゆきの網の中に魚の頭が入りました。しかし、胴体の半分は網からはみ出すほどの大きさでした。網が壊れるかも・・・としゆきは網が壊れることより、この魚を逃がすことの方が怖くなっていました。ケンゴも同じ思いらしく、竿を投げ捨てるととしゆきと一緒に網の柄を持ち、紐で吊り上げるようにゆっくりと水面から持ち上げました。丸い網はすっかりひしゃげた紡錘状に変形してしまいましたが、金色の鯉は堤の草の上に上げることができました。鯉は2回大きく飛び跳ね、あとは鰓と口で大きく呼吸していました。
 こんなに大きくて、金色の鯉は見たことがありませんでした。としゆきはその立派な魚体に見とれていました。ケンゴは漬けてあった玉ねぎ袋を引き上げ、先に釣っていた錦鯉と一緒に金鯉を入れると再び、池の中に降ろしました。
再び釣り始めたケンゴは冷静でした。としゆきはあんまりどきどきしていたので、ケンゴに気づかれると恥ずかしいと思い、冷静に見えるように努力しました。
「また、釣れるかな?」
 ケンゴは空模様を眺め、水面を見て、最後にとしゆきの顔を向いて「さあな」とだけ答えました。
 しばらく二人とも無言でしたが、急にケンゴがぽつりと言いました。
「金鯉はおれが持って帰るど。・・・お前には赤い方やる」
 としゆきは大きな金鯉がほしかったのですが、それをほしいとは言えませんでした。ただ「うん」とだけ小声で返事しました。
 桜池を吹く風は、ケンゴの浮きを吹き流すほど強まっていました。

2008年8月20日水曜日

桜池の河童(4)

「ここの鯉釣ったら怒られるんやど」
 再びとしゆきは脅すように帽子の少年に小声で唸りました。
「鯉とちごたらええんやろ」 見知らぬ野球帽子はそう言って、もうとしゆきに興味をなくしたようでした。(もう鯉釣ってるやんか・・・)としゆきはその態度が気に入りませんでしたが、どこか悠然とした少年の態度が面白くなっていました。
「まあ、フナやったらええけど」といって、釣り座のとなりに勝手に座り込みました。
「…」野球帽子の少年もなにか文句を言おうとしましたが、考え直して黙ってとしゆきを坐らせたまま釣りを続けました。
 半時間ほどして、何も釣れないのでとしゆきは退屈げに体を揺らしていたときでした。
「お前名はなんちゅうの?わいはケンゴや」
 としゆきは急に不愛想な野球帽が喋りだしたので、少し驚きましたが、すぐに自分の名前を名乗りました。
「家どこや?」
「伊太祁曽や。おまはんこそどこなん?」 ケンゴはすこし唇を歪めて「大河内や」と言いました。
 大河内も伊太祁曽も同じ山東地方ですが、西と東で小学校は分かれていたため、としゆきは同年代のケンゴのことをまったく知りませんでした。
「ケンゴは桜池にようくんのか?」
「まあな」にやりとケンゴは帽子の下で笑いました。
「ほんでも釣れやんなぁ…」
「今は餌が悪いんや」
不機嫌にケンゴは唸りましたが、すぐに不気味な笑いを浮かべて「お前、このあたりでミミズいてるとこ知らんか」と聞いてきました。としゆきはすこし考えて、堤脇の自分ちの畑のみかんに敷いてある藁の下で見たこと思いだしました。
「ミミズのほうがよう釣れるんや」
 としゆきはケンゴを連れてみかん畑に行き、二人してミミズを採りました。すぐに十匹くらい見つけるとケンゴがもっていた海苔の佃煮の空き瓶に入れました。
「こんかえあったら釣れるわ。お前にも魚やるから」
 ケンゴは会ってから一番の笑みを浮かべて言いました。
 としゆきもなんだか楽しくなり二人して跳ねるように釣り場に戻りました。
 空は暗くなり夕立間際の生温かい風が吹き、桜池の水面が揺れ始めていました。

2008年7月8日火曜日

梅雨の終わり


 窓の外で雨が激しく降っている。地面や屋根や、トタンを叩いている。
 そう遠くないところで雷鳴が轟く。
 雨と稲妻が世界を支配している。
 蛙も蝉も息を潜め、暴君の過ぎ去るのを待っている。
 梅雨の終わりを告げる嵐だと母と姉が言っていた。
 夏の日々がまた始まろうとしている。

桜池の河童(3)



 桜池の堤は長いススキや葦に包まれていました。としゆきは堤の下から見上げて、どこから登ろうかと思案しました。堤の下には水田があり、その畦まではきれいに手入れされているのですが、溝から上の堤へ至る道は背の高い雑草に隠れて容易に探せません。
 南の端には水門があり、そこから流れ落ちる水路からは段差がありすぎて、子供にはどうしようもありません。
 しばし、半分あきらめて溝の魚を捕って帰ろうかと思案しながら、見まわしていましたが、水のすくない溝で子供に捕まえることの出来るような魚は、見当りません。
 半分あきらめかけたところで堤の中央にやや草の少ないところを見つけました。
 そこに分け入っていくとそこはあまり人は通らないが、たしかに堤に出るための道でした。
 としゆきは自分の背丈より高い草を体で押しのけながら6、7メートル登ると草の向こうに水面が見えてきました。水草がいくらか絡まった濁った深い緑色の水が風もなく広がっていました。対岸にはコンクリート道が小さく見えました。奥にあるみかん畑には誰もいないようでした。
 少し勇気を得たとしゆきは大胆に堤の端に向かって力いっぱい進んでいきました。 突然、ススキのジャングルが途切れ、小さな空き地に飛び出ました。回りがススキで囲まれていたため、まったく見えませんでしたが、そこだけぽっかりと空いた秘密の空間になっていました。
 としゆきはあっと声をあげました。その土の上に人がうずくまっていたからです。
 そいつはとしゆきと大差ない子供に見えました。
 「お前・・・なにやってんの」
 としゆきは距離をとりながら、いつでも逃げ出せる体制のまま小声で聞きました。
 「・・・」
 うずくまっていたそいつは振り返って、右手の竹を軽く持ち上げました。
 「鯉釣ってるんや。静かにせぇよ」
 たしかに右手の竹竿からは、透明のテグスが伸びていました。さらに3メートルほど前には丸いプラスチックの浮きが浮いています。そして、そいつの顔は、としゆきと変わらない年頃の男の子でした。野球球団(としゆきは知らなかったが阪神タイガースのものだった)の帽子をかぶり、半そで短パンでしたが、としゆきより色の白い丸顔でした。
 顔を見て少し安心したとしゆきは男の子に近づき、「ここの鯉は飼うてるんや、おっさんらに見つかったら怒られるど」と脅かすように囁きました。
 「はっはっはっ、そんなん関係ないわ。それに俺はみつからへんし」
 そいつは鼻を鳴らして再び、池のほうに顔を向けてしまいました。としゆきはなんだか腹が立ちましたが、池に伸びている紐に気がつきました。
 池のそばまで行って、覗き込むとたまねぎ袋が沈んでおり、そこに三色の大きな鯉が入っていました。今までとしゆきが捕まえたことのないような大物でした。
 野球帽への腹立ちを瞬時に忘れ、としゆきは隣に座り込んで釣りを見守りました。
 蝉の鳴き声も消えた昼下がり、いよいよ雲が増えてきていましたが、としゆきは名前も知らない少年と一緒に桜池に浮かぶ朱色の浮きを見つめていました。

2008年6月9日月曜日

桜池の河童(2)


 その日は曇りながら明るい日でした。家の飼い猫がとしゆきを警戒しながらブロックで作られた池の竹の蓋の上であくびをしています。たまにこの子供は猫の水上訓練といって、幅1メートル、長さ2メートルの水槽にハチを投げ込むのでした。彼女は大変そういうことを嫌っていたが、子猫の自分を家につれてきた彼にはよくなついていました。この日、としゆきも何事かよからぬことを考えている表情でした。逃げようかと思いましたが、面倒なので動かずに人間の子供の様子を見守ることにしました。
 としゆきは家人に見つからないように虫取り網を持つと自転車にまたがり、そっとスタンドを上げて静かに足で自転車を進めました。チェーンのギアの音でさえ今の彼には大きすぎたのですが、慎重に道まで出て坂の下の倉庫に両親がいないことを確認すると、一気に下り坂を降りました。白いコンクリートの道を勢いよく駆け降り、自分ちの倉庫を曲がると、そこはもう彼の中では外界でした。

 下り坂が終わった三又路を右に折れ自転車はコンクリートの所々割れた道を南の方角に進んでいきました。きり山の東側の裾を縫うようにつづく農道に沿ってどんどん行き、水田の中にぽつんとある木々が茂った”もりさん”の横を過ぎ、道の下に倉庫がある畑に差しかかったところで、としゆきが恐れていたことが起こりました。
 「としゆきぃ、お前どこいくんや?」
 母親の従弟で大工の大吉でした。大吉は身長180センチ以上もある大男で、目がギョロッとした迫力のある顔をしています。子供のとしゆきには仮面ライダーの怪人の次に怖い大人でした。
 「これから向こうのみどっこ(溝っこ=小川)で魚掬うんや」
 虫取り網を振りながら、内心どぎまぎしながら言うと、大吉は少し険しい表情で、としゆきを睨みつけて唸るように言いました。
 「桜池には行ったらあかんど。分かったな?」 いかへん、と呟きながらくびを振るとしゆきに、追い打ちを駆けるように「嘘ついたらドリルで手に穴あけるど!!」と怒鳴ると、興味をなくしたように再び大吉は仕事に戻っていきました。としゆきは青ざめて自転車思いっきりこいでその場を離れました。大叔父の姿が見えなくなったところで、やっと自転車の速度を緩め、一息つきました。少し足がだるくなっていましたが、そのまま進みみかんの木と山の間に桜池の堤が見えるところ、道が西に向きを変えるところで自転車を道端のみかん畑に乗り捨てました。そこからは田んぼの畦を進むため、自転車では通れないのでした。
 誰も見ていないのに用水路を網でつつきながら、さも興味なさ気に穂の伸びた水田の畦道を辿っていきました。