今にも降り出しそうな重い雲が桜池の谷に広がっていました。もうすぐにも雨の水滴の作る波紋が水面を多い尽くすような気がします。としゆきは水の波紋を待っていました。そして、波打つ水面にはっきりと分かる波紋が広がりました。
「きたっ」
ケンゴの鋭く小さな叫びとともに浮きが跳ね上がり、竹の竿は”つ”の字に曲がりました。波紋は雨ではなく浮きが沈んだ際にできた物でした。
としゆきは目を丸くして明らかに大物によって、捻じ曲げられているケンゴの竿を見上げました。ケンゴは今までに無い真剣な表情で竿を右に左に操り、魚をいなそうとしています。魚が一瞬水面に近づいたとき、大きな金色の腹が見えました。
「金鯉やっ」
ケンゴは益々目を輝かせながら、歯を食いしばって竿を握り締めています。
「もうちょっとで上がってくるから、網で掬ってくれっ」
「網って・・・」としゆきは自分が持ってきていた網のことをすっかり忘れていましたが、自分の後ろにほおり出していた虫取りの網を掴みました。しかし、いよいよその全身を水面に現した金色の大鯉を見ると、自分の持ってきた網はとっても頼りなく、とてもこの池の主のような魚が入るように思えませんでした。
「上げるど、掬ってくれ!」
「え、ああっ」としゆきは意を決して、網を魚の方に近づけました。
「そっちからやない!魚は頭から掬うんやっ」ケンゴは怒鳴るように言いました。
「ああ、うん・・・」としゆきは必死に頭から魚を掬おうとしました。しかし、堤のすぐ下は葦が生えており、網は葦の茎に遮られてうまく魚に近づきません。
「もっと寄せてっ」
「寄せとるわっ」ケンゴは唸るようにいって竿を立てていきます。「今やっ」
「うわっ」変な掛け声とともに、としゆきの網の中に魚の頭が入りました。しかし、胴体の半分は網からはみ出すほどの大きさでした。網が壊れるかも・・・としゆきは網が壊れることより、この魚を逃がすことの方が怖くなっていました。ケンゴも同じ思いらしく、竿を投げ捨てるととしゆきと一緒に網の柄を持ち、紐で吊り上げるようにゆっくりと水面から持ち上げました。丸い網はすっかりひしゃげた紡錘状に変形してしまいましたが、金色の鯉は堤の草の上に上げることができました。鯉は2回大きく飛び跳ね、あとは鰓と口で大きく呼吸していました。
こんなに大きくて、金色の鯉は見たことがありませんでした。としゆきはその立派な魚体に見とれていました。ケンゴは漬けてあった玉ねぎ袋を引き上げ、先に釣っていた錦鯉と一緒に金鯉を入れると再び、池の中に降ろしました。
再び釣り始めたケンゴは冷静でした。としゆきはあんまりどきどきしていたので、ケンゴに気づかれると恥ずかしいと思い、冷静に見えるように努力しました。
「また、釣れるかな?」
ケンゴは空模様を眺め、水面を見て、最後にとしゆきの顔を向いて「さあな」とだけ答えました。
しばらく二人とも無言でしたが、急にケンゴがぽつりと言いました。
「金鯉はおれが持って帰るど。・・・お前には赤い方やる」
としゆきは大きな金鯉がほしかったのですが、それをほしいとは言えませんでした。ただ「うん」とだけ小声で返事しました。
桜池を吹く風は、ケンゴの浮きを吹き流すほど強まっていました。
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