「ここの鯉釣ったら怒られるんやど」
再びとしゆきは脅すように帽子の少年に小声で唸りました。
「鯉とちごたらええんやろ」 見知らぬ野球帽子はそう言って、もうとしゆきに興味をなくしたようでした。(もう鯉釣ってるやんか・・・)としゆきはその態度が気に入りませんでしたが、どこか悠然とした少年の態度が面白くなっていました。
「まあ、フナやったらええけど」といって、釣り座のとなりに勝手に座り込みました。
「…」野球帽子の少年もなにか文句を言おうとしましたが、考え直して黙ってとしゆきを坐らせたまま釣りを続けました。
半時間ほどして、何も釣れないのでとしゆきは退屈げに体を揺らしていたときでした。
「お前名はなんちゅうの?わいはケンゴや」
としゆきは急に不愛想な野球帽が喋りだしたので、少し驚きましたが、すぐに自分の名前を名乗りました。
「家どこや?」
「伊太祁曽や。おまはんこそどこなん?」 ケンゴはすこし唇を歪めて「大河内や」と言いました。
大河内も伊太祁曽も同じ山東地方ですが、西と東で小学校は分かれていたため、としゆきは同年代のケンゴのことをまったく知りませんでした。
「ケンゴは桜池にようくんのか?」
「まあな」にやりとケンゴは帽子の下で笑いました。
「ほんでも釣れやんなぁ…」
「今は餌が悪いんや」
不機嫌にケンゴは唸りましたが、すぐに不気味な笑いを浮かべて「お前、このあたりでミミズいてるとこ知らんか」と聞いてきました。としゆきはすこし考えて、堤脇の自分ちの畑のみかんに敷いてある藁の下で見たこと思いだしました。
「ミミズのほうがよう釣れるんや」
としゆきはケンゴを連れてみかん畑に行き、二人してミミズを採りました。すぐに十匹くらい見つけるとケンゴがもっていた海苔の佃煮の空き瓶に入れました。
「こんかえあったら釣れるわ。お前にも魚やるから」
ケンゴは会ってから一番の笑みを浮かべて言いました。
としゆきもなんだか楽しくなり二人して跳ねるように釣り場に戻りました。
空は暗くなり夕立間際の生温かい風が吹き、桜池の水面が揺れ始めていました。