桜池の堤は長いススキや葦に包まれていました。としゆきは堤の下から見上げて、どこから登ろうかと思案しました。堤の下には水田があり、その畦まではきれいに手入れされているのですが、溝から上の堤へ至る道は背の高い雑草に隠れて容易に探せません。
南の端には水門があり、そこから流れ落ちる水路からは段差がありすぎて、子供にはどうしようもありません。
しばし、半分あきらめて溝の魚を捕って帰ろうかと思案しながら、見まわしていましたが、水のすくない溝で子供に捕まえることの出来るような魚は、見当りません。
半分あきらめかけたところで堤の中央にやや草の少ないところを見つけました。
そこに分け入っていくとそこはあまり人は通らないが、たしかに堤に出るための道でした。
としゆきは自分の背丈より高い草を体で押しのけながら6、7メートル登ると草の向こうに水面が見えてきました。水草がいくらか絡まった濁った深い緑色の水が風もなく広がっていました。対岸にはコンクリート道が小さく見えました。奥にあるみかん畑には誰もいないようでした。
少し勇気を得たとしゆきは大胆に堤の端に向かって力いっぱい進んでいきました。 突然、ススキのジャングルが途切れ、小さな空き地に飛び出ました。回りがススキで囲まれていたため、まったく見えませんでしたが、そこだけぽっかりと空いた秘密の空間になっていました。
としゆきはあっと声をあげました。その土の上に人がうずくまっていたからです。
そいつはとしゆきと大差ない子供に見えました。
「お前・・・なにやってんの」
としゆきは距離をとりながら、いつでも逃げ出せる体制のまま小声で聞きました。
「・・・」
うずくまっていたそいつは振り返って、右手の竹を軽く持ち上げました。
「鯉釣ってるんや。静かにせぇよ」
たしかに右手の竹竿からは、透明のテグスが伸びていました。さらに3メートルほど前には丸いプラスチックの浮きが浮いています。そして、そいつの顔は、としゆきと変わらない年頃の男の子でした。野球球団(としゆきは知らなかったが阪神タイガースのものだった)の帽子をかぶり、半そで短パンでしたが、としゆきより色の白い丸顔でした。
顔を見て少し安心したとしゆきは男の子に近づき、「ここの鯉は飼うてるんや、おっさんらに見つかったら怒られるど」と脅かすように囁きました。
「はっはっはっ、そんなん関係ないわ。それに俺はみつからへんし」
そいつは鼻を鳴らして再び、池のほうに顔を向けてしまいました。としゆきはなんだか腹が立ちましたが、池に伸びている紐に気がつきました。
池のそばまで行って、覗き込むとたまねぎ袋が沈んでおり、そこに三色の大きな鯉が入っていました。今までとしゆきが捕まえたことのないような大物でした。
野球帽への腹立ちを瞬時に忘れ、としゆきは隣に座り込んで釣りを見守りました。
蝉の鳴き声も消えた昼下がり、いよいよ雲が増えてきていましたが、としゆきは名前も知らない少年と一緒に桜池に浮かぶ朱色の浮きを見つめていました。